不遇なフグ

どうしてこんな

友達

twitterに自分のリア垢が存在する 他にもいくつかアカウントはある もしかしたらリア垢って言葉オタクしか使わないかも 

リア垢ではツイートにいいねがつかないと、フォロワーの数といいねの数が比例せず皆が社交辞令で私をフォローしてくれていることが浮き彫りになってしまう 

現実の人間関係とは隔絶されている𓆡ではいいねの数なんて気にしていない いいねがついたら嬉しいぐらいに思っている

先輩や好きな人は他の同期のツイートにいいねを押すが、私のツイートには押していないのを見る 自分が人に「なんとなく気持ち悪い存在」と扱われていることを確認する 

(これは下書き段階でだいぶ前に書いたもの 今は先輩や好きな人のことは割とどうでもいいと思っている) 

 

でも5日前ぐらいの朝に「いける!」と思ってリア垢もインスタのリア垢もログアウトした 今もそのまま 

LINEなんて来ない これで皆から存在を忘れられていたら面白い 

私が愛されたり認められたりしていないことは周知の事実だから、忘れられるのも自然なこと  

 

休みの間に色んなことを諦める準備はしているけれど、人と直接会って話したりすると判断力が0になって、皆のクソみたいに明るい笑顔と小馬鹿にしたような明るい声の「大丈夫だよ!」を信じて「もしかしたらまだ…」と思ってしまう未来が見える 

違うって もうおしまいなの 便宜上皆には平等に愛すし優しくするけどさ 信じちゃダメだから 

 

 

高校時代の友達

(部活で一緒だったから仲間という位置付けが正しいかもしれないし、卒業後にはその人たちにとって自分はそこまで大事じゃなくなったのでおそらく今は高校の同級生ぐらいに思われている)

のことを思い出すと、

属性や好きな物だけでは語れないけれど、一言で表すならば主に二次元(K-POPもいた)のオープンなオタク

オタクはご存知の通り迫害されがちだが彼女らは全くそんなことはなく、愛嬌、天然さ、話術、素敵な考え方、万物に対する真っ直ぐな志などがあって、部内に留まらず、私にとっては恐ろしいパリピ陽キャや男子達にも好かれる人達だった 

ただ、自然と「世渡り上手」という認識はしなかった 

きっと私とも対等に話してくれたからだと思うし、どこまでも真っ直ぐで優しさが深すぎて嫉妬もできなかったのもある 

太陽みたいな人達だった 今はもう友達じゃないかもしれないけれど、一緒に居れて良かった 

 

大学での友達のような人達はどうだろうか 

 

学部の友達はいわばよっ友or単なる知り合いレベルの仲だから深い繋がりはないしお互いのことも知らない 

メイク、ゲーム、勉強、それぞれのジャンルの話が出来る人が数人いるくらい 

授業もそんなに被らないし普段は忙しいから全然関わりがない 

 

部活の友達はあまりにも光が強すぎて飲み込まれそう その光に目がくらんで身の程を知らず明るくなってバカになっていつも後悔してしまう この光の前では何もかも不可抗力な気がする 

皆は生きる目的も意外とぼんやりしていて尚且つ利己的に生きている

もちろん他人の人生だから口出しする権利はないが、「そういう」人達に沢山傷つけられたから怖いとも思うしどこかで軽蔑してしまっている 

中学生の頃はまだ精神的に未熟で誰がどう生きているのか分からなかったし、高校生の頃は皆の優しすぎて「ちょっとは自分のために生きろや…」と思っていたぐらいだったから、こういう生き方の人達が身近に「友達」としているのが新鮮、悪い意味で

怖い

いつ敵に回るの?いつ裏切られるの?いつ部活で村八分になるの? 皆のこと信じてません 

 

本当にめんどくさいね アー 皆殺してやるって気持ちがあってもまた皆と会ったらさ、忘れちゃうんだよ 怯えることしか出来なくなるんだよ 悔しい どうしたらいいんだろう 負けたくない 

おれは誰の心にも触れないから誰もおれの心に触れるな!!!!